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富士山噴火とべらぼうの関係は?作品で描かれた背景を整理

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浅間山の火山灰が降る江戸の日本橋で空を見上げる蔦屋重三郎と町人たち 自然と科学

『べらぼう』第25回で江戸に降った灰は、富士山ではなく、1783年の浅間山・天明大噴火を描いたものです。

2025年6月29日放送の「灰の雨降る日本橋」では、蔦屋重三郎が丸屋を買い取り、日本橋へ進出する転機に浅間山の噴火が重ねられました。

史実でも浅間山の火山灰は江戸まで到達しましたが、日本橋での場面や登場人物の反応はドラマ上の表現です。この記事では、劇中の描写と史実を分けながら、天明大噴火の経過、被害、富士山の宝永大噴火との違いを解説します。

『べらぼう』第25回で描かれた噴火は何だった?

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第25回で描かれたのは、長野県と群馬県の境にある浅間山の天明大噴火です。

第25回の題名は「灰の雨降る日本橋」。2025年6月29日に放送され、物語の時代は天明3年、現在の西暦では1783年に当たります。

横浜流星さん演じる蔦屋重三郎、通称「蔦重」は、吉原を足場に出版業を広げてきました。第25回では丸屋を買い取り、江戸の商業と出版の中心である日本橋へ進出する局面が描かれます。

橋本愛さん演じるていをはじめ、日本橋側の人々との関係も動き始めます。蔦重にとっては、吉原の本屋から江戸を代表する出版人へ近づく、大きな一歩です。

ところが、その門出に灰が降ります。

町の人々が異変に戸惑い、晴れやかだった日本橋の空気が灰色へ変わることで、蔦重個人の上昇と社会を覆い始める不安が同じ場面に置かれました。

NHKが公開した第25回の公式あらすじでも、蔦重による丸屋の買い取りと浅間山の噴火は、この回を動かす重要な出来事として紹介されています。

ただし、ここでは三つを区別しなければなりません。

  • ドラマで確認できること:日本橋進出の局面で灰が降り、蔦重たちが異変に直面する
  • 史料で確認できること:1783年に浅間山が大噴火し、火山灰が江戸まで到達した
  • 確認できないこと:史実の蔦重が、劇中と同じ場所・順番・言葉で噴火に反応したかどうか

現存する史料から、蔦重が噴火当日に日本橋のどこにいて、どのような言葉を発したのかまでは断定できません。劇中のせりふや人物の配置は、史実を伝えるためのドラマ上の構成と見るのが適切です。

また、「江戸で降灰が記録された」ことと、「史料によって日本橋の特定地点での降灰を直接確認できる」ことも同じではありません。

史実では浅間山の灰が江戸まで届き、ドラマではその災害が日本橋に降る灰として可視化された――この表現が最も正確でしょう。

僕は大学で地理学と火山学を学び、富士山の噴火史と広域降灰を追ってきました。その立場から見ても、第25回の重要な点は噴火の迫力そのものより、遠方の火山災害が都市の商売や情報流通へ入り込む様子にあります。


浅間山の天明大噴火はいつ、何が起きた?

浅間山の天明大噴火は、天明3年、すなわち1783年に発生しました。

気象庁「日本活火山総覧(第4版)Web掲載版」と国土交通省関東地方整備局・利根川水系砂防事務所の解説では、噴火活動は旧暦の天明3年4月9日から始まったと整理されています。

現在の暦に換算すると、1783年5月9日ごろです。

旧暦と現在使われているグレゴリオ暦では日付が異なるため、資料を読む際には「天明3年4月9日」と「1783年5月9日」を別の日と誤解しない注意が必要です。

活動はいったん弱まった後、旧暦5月26日、現在の暦では6月25日ごろから再び活発になりました。噴火は断続的に続き、浅間山周辺だけでなく、遠く離れた地域でも鳴動や降灰が記録されます。

最大の局面は、旧暦7月7日夜から7月8日朝でした。現在の暦では、1783年8月4日夜から8月5日朝に当たります。

利根川水系砂防事務所の解説では、この激しい活動は約15時間に及んだとされています。大量の軽石や火山灰などが放出され、北側の山麓では噴出物と岩塊を含む大規模な流れが集落を襲いました。

公的な防災解説では、この現象を「鎌原土石なだれ」などと表現しています。一方、研究資料では「鎌原火砕流」「鎌原岩屑なだれ」などの名称も使われ、発生と流動の仕組みには現在も検討の余地があります。

そのため、「溶岩が村をのみ込んだ」「普通の土石流だけで壊滅した」と単純化するのは適切ではありません。

被害が特に深刻だったのは、現在の群馬県吾妻郡嬬恋村にある鎌原地区です。

鎌原観音堂や嬬恋村が伝える記録では、当時の鎌原村にいた570人のうち477人が亡くなり、観音堂周辺などの高所へ逃れた93人が生き残ったとされています。

村人の約8割が命を失った計算です。ドラマの日本橋で見える灰は薄くても、その灰が来た方向では、一つの村が存続の危機に直面していました。

天明大噴火全体の被害数は、資料によって異なります。

利根川水系砂防事務所の解説では、死者1,151人、流失家屋1,061棟という集計が示されています。一方、古い文献や別の集計には、死者を1,400人以上、あるいは1,600人前後とする説明もあります。

この差は、鎌原村の直接被害だけを数えるのか、吾妻川流域で生じた二次的被害まで含めるのかなど、対象範囲の違いによって生まれます。

したがって、1,151人という数字は「公的機関の解説に掲載された一つの集計」であり、すべての研究が一致した唯一の数字という意味ではありません。

山腹から流れ出した溶岩は、現在「鬼押出し」と呼ばれる岩原の景観をつくりました。黒く荒々しい岩の連なりは観光名所であると同時に、1783年の噴火が大地に刻んだ記録でもあります。

※画像はAIによるイメージ

細かな火山灰は上空の風に運ばれ、関東の広い範囲へ降りました。江戸でも灰が降り、空の異変が観察された記録が残されています。

火山灰は、燃えた物の灰ではありません。噴火によって砕かれた岩石や鉱物などの細かな粒子であり、水、農作物、屋根、道路、道具、商品の保管環境へ影響します。

日本橋は各地から商品と情報が集まる都市の結節点でした。そこへ灰を降らせる劇中の演出は、火口から離れた江戸も災害の外側にはいられないことを、一つの画面で示しています。


天明大噴火は飢饉や田沼政治にどう影響した?

浅間山の天明大噴火は、天明の大飢饉を深刻化させた要因の一つです。ただし、噴火だけが飢饉を引き起こしたわけではありません

東北地方を中心とする凶作は、噴火前から始まっていました。低温や長雨などの天候不順によって稲の生育が阻害され、食料供給が不安定になっていたためです。

当時の社会では、米が食料であるだけでなく、年貢、藩の財政、武士の給与、商取引を支える基盤でもありました。

そのため不作が起きると、農村の食料だけではなく、藩の収入や都市への供給も同時に揺らぎます。そこへ浅間山の降灰が重なり、農地や河川、交通へ追加の負担を与えました。

米価が上がれば、値上がりを見越して米を売り控える動きも起こります。藩の財政を維持するため、領内の米を都市へ送り、農村に十分な食料が残らなかったとされる事例もあります。

飢えによって人々が村を離れると、翌年に田畑を耕す働き手が減ります。食料不足が生産力の低下を招き、その低下が次の不足を深める悪循環です。

飢饉のさなかには疫病も広がりました。江戸では米価高騰や救済の遅れに対する不満が強まり、のちの打ちこわしにつながっていきます。

つまり、天明の大飢饉は次の要因が重なった複合災害でした。

  • 噴火前から続いていた低温や長雨などの天候不順
  • 浅間山噴火による降灰と地域的な農地被害
  • 米に強く依存した経済と年貢制度
  • 備蓄、流通、藩の財政政策による地域差
  • 食料不足に続いて発生した人口流出や疫病

同じ1783年には、アイスランドのラキ火山でも大規模な噴火が始まりました。火山性ガスや微粒子が北半球の大気へ影響した可能性は研究されていますが、日本の天明飢饉への寄与を単独で確定することはできません。

「浅間山の灰が日本全体を冷やして飢饉を起こした」「ラキ火山だけが原因だった」と一本の因果関係で説明するのは、現在の研究状況に対して単純すぎます。

田沼意次の失脚についても同様です。

浅間山噴火と飢饉への対応は、田沼政治に対する不満を強めました。しかし、1783年の噴火直後に田沼意次が失脚したわけではありません。

1784年には、意次の嫡男で若年寄だった田沼意知が、江戸城内で佐野政言に襲われて死亡しました。これは田沼家の政治的な後継基盤を弱める出来事でした。

さらに1786年、意次を重用していた10代将軍・徳川家治が死去します。後ろ盾を失った意次は同年に失脚し、1787年には松平定信が老中首座となって寛政の改革を進めました。

浅間山噴火は田沼時代を揺さぶった重要な出来事ですが、失脚の唯一の原因ではありません。飢饉への批判、嫡男の死、将軍の死、幕府内部の権力関係が重なった結果と考えるべきです。

『べらぼう』第25回の灰は、「この日、田沼時代が終わった」という合図ではありません。

蔦重を育てた商業と文化の時代へ、食料不足、物価高、政治不信という影が差し始めたことを示す場面だと、僕は受け止めています。


浅間山の天明大噴火と富士山の宝永大噴火の違い

『べらぼう』で描かれた浅間山の天明大噴火と、富士山の宝永大噴火は別の災害です。

富士山の宝永大噴火は1707年12月16日に始まり、約16日間続きました。浅間山の天明大噴火より76年前です。

違いを整理すると、次のようになります。

比較項目 浅間山・天明大噴火 富士山・宝永大噴火
発生年 1783年 1707年
火山 浅間山 富士山
江戸への影響 火山灰が江戸まで到達 火山灰が江戸まで到達
主な被害の特徴 鎌原村と吾妻川流域で大きな人的被害 南東山麓の厚い堆積と農地被害、噴火後の洪水・土砂災害
『べらぼう』との関係 第25回で描かれた噴火 劇中の噴火ではない

中央防災会議の「1707 富士山宝永噴火」に関する報告書では、富士山南東斜面に宝永火口が開き、火山灰や軽石などが広範囲へ降ったと整理されています。

御殿場周辺では、場所によって2メートルを超える噴出物が堆積しました。江戸でも空が暗くなり、灰が降ったことが当時の記録から確認されています。

東京大学地震研究所による宝永噴火の研究では、現在の横浜周辺で約10センチ、川崎周辺で約5センチに相当する降灰量が推定されています。

これは研究で示された地点ごとの推定値であり、現在の首都圏全体に同じ厚さの灰が積もったという意味ではありません。

宝永大噴火では、堆積した灰が雨で河川へ流れ込み、噴火後も洪水や土砂災害を繰り返しました。浅間山の天明大噴火では、鎌原村を襲った大規模な流れと吾妻川流域の被害が、多数の犠牲者を出す大きな要因となりました。

共通するのは、火口から離れた江戸も火山灰の影響を受けたことです。

一方で、発生した年、火山、噴火の経過、山麓で生じた現象、被害の広がり方は異なります。二つを「江戸に灰を降らせた噴火」という一点だけで混同してはいけません。

なお、過去の噴火をドラマで見たことは、富士山や浅間山の噴火が差し迫っていることを意味しません。過去の噴火間隔を平均しても、次の噴火日を予測することはできないからです。

歴史資料は、将来起こり得る被害を考える手掛かりです。しかし、噴火時期を告げる予言ではありません。


なぜ蔦重の日本橋進出と火山灰を重ねたのか?

ここからは、富士山の噴火史と防災を継続的に調べてきた筆者としての考察です。

第25回の演出を読み解く鍵は、火山灰と出版物という「二つの流通」にあると僕は考えます。

日本橋は、江戸の街道と商業の中心でした。各地から米や商品が運び込まれ、人、金、情報が行き交う場所でもあります。

蔦重にとって丸屋の買い取りは、吉原を中心としてきた商いを日本橋へ広げる転機です。より多くの人へ本や錦絵を届けるため、情報流通の中心へ進もうとした場面でした。

その直後に、浅間山から運ばれた灰が降ります。

火山灰は風によって運ばれ、出版物は人の手と商いの道によって運ばれます。片方は不安と被害を広げ、もう片方は出来事を理解する言葉、風刺、笑い、記憶を広げます。

この対照が成立する根拠は、日本橋進出と噴火が同じ回の中で並べられていることです。蔦重の商売が大きく開かれる場面と、江戸社会を包む危機の入口が、同じ空の下で交差しています。

※画像はAIによるイメージ

天明期の出版文化は、平穏な娯楽だけを扱ったわけではありません。物価、政治、世相、人々の欲望や不満も、戯作や黄表紙、狂歌などの題材になっていきました。

もちろん、第25回の灰を見ただけで、史実の蔦重が直ちに災害出版を志したと断定することはできません。

しかし、出版人を主人公とする物語において、社会の変化はそのまま「何を伝え、何を笑い、何を記録するのか」という問いになります。

僕が登山で濃い霧に包まれたとき、見えていたはずの道が一瞬で消えることがあります。けれども、道そのものがなくなったわけではありません。

第25回の灰も同じです。蔦重の前途を消したのではなく、これから進む江戸の道が、決して明るい場所だけではないと見せたのでしょう。

灰の降る時代に、本は火山を止められません。それでも、何が起きているのかを伝え、不安に形を与え、人々の記憶を次代へ残すことはできます。

だからこそ、僕はこの回を単なる「歴史上の噴火を再現した回」とは見ません。

蔦重が出版の中心へ近づいた瞬間、出版が社会に対して負う役割も重くなった。その変化を、浅間山から届いた灰が白い紙の上へ浮かび上がらせた回だったと考えます。


まとめ|『べらぼう』の灰は浅間山から江戸へ届いた

『べらぼう』第25回「灰の雨降る日本橋」で描かれた噴火は、富士山ではなく、1783年の浅間山・天明大噴火です。

劇中では、蔦屋重三郎が丸屋を買い取り、日本橋進出へ踏み出す局面に灰が降ります。史実でも浅間山の火山灰は江戸まで到達しましたが、日本橋での具体的な人物配置や反応はドラマ上の表現です。

噴火活動は現在の暦で1783年5月9日ごろから始まり、8月4日夜から5日朝にかけて最も激しい局面を迎えました。

鎌原村では570人のうち477人が死亡したと伝えられています。利根川水系砂防事務所の解説では、天明大噴火による被害として死者1,151人、流失家屋1,061棟という集計が示されています。

噴火は天明の大飢饉を深刻化させましたが、飢饉は噴火だけで起きたものではありません。天候不順、米に依存した経済、流通、藩の政策、人口流出、疫病などが重なった複合災害でした。

田沼意次の失脚も、噴火だけを原因にはできません。飢饉への批判に加え、1784年の田沼意知の死、1786年の徳川家治の死、幕府内の政治関係が影響しています。

1707年の富士山・宝永大噴火も江戸へ灰を運びましたが、『べらぼう』第25回の噴火とは別の出来事です。

二つの噴火が教えるのは、山麓から離れた都市も災害と無関係ではないということです。火山灰は風に乗り、食料、物流、商売、政治、そして人の心まで揺らします。

蔦重が運ぼうとしたのは本であり、浅間山から運ばれてきたのは灰でした。

その二つの流れが日本橋で交差したとき、『べらぼう』の物語は一人の商人の成功譚から、揺れる社会の中で言葉を届ける出版人の物語へ踏み出したのだと、僕は感じています。


よくある質問

『べらぼう』第25回で富士山が噴火したのですか?

いいえ。第25回で描かれたのは、1783年の浅間山・天明大噴火です。富士山の宝永大噴火は1707年に起きた別の災害です。

浅間山の火山灰は本当に日本橋まで届きましたか?

史実として確認できるのは、浅間山の火山灰が江戸まで届いたことです。日本橋への降灰はドラマで描かれた表現であり、日本橋の特定地点における直接記録とは分けて考える必要があります。

浅間山噴火が田沼意次を失脚させたのですか?

噴火と飢饉は田沼政治への批判を強めましたが、それだけが原因ではありません。田沼意知の死、徳川家治の死、幕府内の権力関係などが重なり、田沼意次は1786年に失脚しました。

主な確認資料

  • NHK『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第25回「灰の雨降る日本橋」公式あらすじ
  • 気象庁「日本活火山総覧(第4版)Web掲載版・浅間山」
  • 国土交通省関東地方整備局・利根川水系砂防事務所「浅間山の過去の噴火」
  • 嬬恋村および鎌原観音堂の天明3年浅間山噴火に関する資料
  • 中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1707 富士山宝永噴火」
  • 東京大学地震研究所による富士山宝永噴火の研究資料

資料確認日:2026年8月21日

執筆:神楽 岳志(登山エッセイスト|富士山研究家|自然体験ストーリーテラー)

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