1707年の富士山宝永噴火は、約16日続き、江戸まで火山灰を降らせ、復興を世代単位で長引かせた爆発的噴火です。
噴火は1707年12月16日午前、富士山の南東斜面で始まり、翌1708年1月1日未明まで続きました。確認できる史料上、噴火そのものによる直接死は明確ではありませんが、農地や集落、河川への被害は深刻でした。
この記事では、宝永噴火の経過、宝永地震との関係、江戸の降灰、幕府の復旧策、現在の富士山の活動状況を、数値の確度にも注意しながら解説します。
富士山宝永噴火とは?期間・場所・規模を整理
宝永噴火とは、江戸時代中期の1707年12月16日に始まった、富士山の歴史上でも最大級とされる爆発的噴火です。
主な事実を先に整理すると、次のようになります。
- 開始:1707年12月16日午前
- 終息:1708年1月1日未明ごろ
- 継続期間:約16日間
- 噴火場所:富士山南東斜面の宝永山付近
- 形成された火口:第一・第二・第三宝永火口
- 噴火様式:大量の軽石、スコリア、火山灰を放出する爆発的噴火
- 推定規模:火山爆発指数VEI5相当
- 主な被害:山麓の埋没、農地荒廃、江戸を含む広域降灰、噴火後の洪水
- 溶岩流:宝永噴火による地表の溶岩流は確認されていない
従来は「1707年12月31日まで」と説明されることもありますが、最後の活動は日付をまたいだとする記録があるため、この記事では1708年1月1日未明までと整理します。
火口は山頂ではなく、現在の宝永山付近に開きました。標高の高い側から第一宝永火口、第二宝永火口、第三宝永火口と呼ばれ、なかでも第一火口は富士山の南東斜面を大きくえぐる地形として残っています。
噴煙の高さは、研究によって上空約20キロメートルに達したと推定されています。噴出量も非常に多く、岩石としての実質的な体積を表すDREでは約0.7立方キロメートル、粒子間の空隙を含む見かけ体積では約1.7立方キロメートルとされることがあります。
二つの数字は、計測の基準が違います。DREは噴出物を隙間のない岩石へ換算した値、見かけ体積は地表へ積もった軽石や灰の隙間も含む値であり、単純な食い違いではありません。
富士山の代表的な歴史噴火には、800~802年の延暦噴火、864~866年の貞観噴火、1707年の宝永噴火があります。
貞観噴火では北西斜面から流れた溶岩が当時の「せの海」を分断し、西湖と精進湖の形成や青木ヶ原樹海の地形に影響しました。一方の宝永噴火では、南東斜面から空へ放出された火山灰やスコリアが被害の中心となりました。
つまり、富士山噴火は毎回同じ姿を取るわけではありません。溶岩流が主役になる場合もあれば、宝永噴火のように、風で遠方へ運ばれる噴出物が社会を広く傷つける場合もあるのです。
宝永火口を歩くと何が見えるのか
僕が富士宮口五合目方面から宝永火口へ向かうとき、最初に意識するのは、富士山の整った稜線と火口壁の荒々しさの落差です。
火口へ近づくにつれ、足元は締まった土から、赤褐色や黒色のスコリアが混じる滑りやすい斜面へ変わります。靴を置くたびに細かな粒が動き、一歩進んでも半歩戻されるような感覚があります。
火口壁には色や粒の大きさが異なる噴出物の層が見えます。ただし、目に見える色だけで年代や化学組成を断定することはできません。現地では「噴火が一度の爆発ではなく、性質を変えながら続いた」と想像する手掛かりとして観察するのが適切です。
さらに印象的なのが植生の薄さです。周囲の森と比べて火口内部には裸地が目立ち、雨、融雪、強風によって現在も噴出物が移動しています。
宝永火口は、過去を閉じ込めた遺跡ではありません。噴火後に残された地形が、その後の気象によって変化し続けている「動く記録」なのです。
宝永噴火はいつ、どのように始まったのか
宝永噴火は、前触れのない一瞬の爆発ではありませんでした。富士市が公開している噴火史の整理では、噴火の1~2か月前から山中で体に感じる地震があり、十数日前には地震活動が活発になったとされています。
噴火前日の12月15日には、山麓で感じる地震が増えました。後世の研究では最大規模をマグニチュード5程度と推定する例がありますが、1707年には近代的な地震計がなかったため、古文書に残る揺れ方や被害から復元された値です。
したがって、「前日に正確に何回、どの規模の地震が起きた」と現代観測と同じ精度で断定することはできません。それでも、山中だけだった異変が山麓の人々にも明確に感じられる段階へ進んだことは、複数の記録から読み取れます。
1707年12月16日午前10時ごろ、富士山の南東斜面から白い雲のような噴煙が立ち上がり、急速に拡大しました。宝永噴火の始まりです。
火口周辺には高温の軽石や火山灰が降り、夕方には噴煙の中に火柱のような光や火山雷が見えたと伝えられています。火山雷は、噴煙中の灰や岩片が激しく衝突し、電気を帯びることで発生します。
初期には白っぽい軽石や灰が目立ちました。いったん活動が弱まった後、同日夕方から再び激しくなり、降下物は次第に黒い火山灰やスコリアへ変化していきます。
17日以降も噴火は断続的に続き、小田原から江戸にかけて灰が降りました。19日ごろから小康状態の時間が増え、20日以降は噴火の頻度と降灰量が次第に減っています。
しかし、そこで完全に終わったわけではありません。12月31日夜から1708年1月1日未明に最後の強い活動があり、一連の噴火は終息したと考えられています。
時系列を簡潔にまとめると、次のとおりです。
- 噴火の1~2か月前:山中で感じられる地震が発生
- 十数日前:地震活動が活発化
- 12月15日:山麓で感じる地震が増加
- 12月16日午前:南東斜面で噴火開始
- 12月16日夕方:活動が再び激化し、噴出物の色や性質が変化
- 12月17~19日:小田原や江戸でも断続的に降灰
- 12月20日以降:活動は次第に低下
- 1708年1月1日未明ごろ:最後の活動を経て終息
この経過が示すのは、噴火が一回の爆発で完結するとは限らないことです。強弱を繰り返す活動が続けば、避難だけでなく、水や食料の供給、家畜の保護、道路の確保を長期間維持しなければなりません。

なぜ宝永噴火は起きた?宝永地震と白灰・黒灰の関係
宝永噴火の49日前には南海トラフ沿いで宝永地震が発生しており、巨大地震が富士山地下の状態へ影響した可能性が研究されています。
宝永地震は1707年10月28日に発生しました。規模については、古文書、津波堆積物、地殻変動などの分析方法によって推定値が異なり、一般にはマグニチュード8.6前後、研究によっては9級の可能性も示されています。
死者数も史料によって幅があります。津波や家屋倒壊を含めて2万人以上とする推計が知られていますが、江戸時代の被害記録には欠落や重複があるため、確定した人数ではありません。
倒壊家屋約6万戸、津波による流失家屋約2万戸という数字も、複数地域の記録を後世に集計した推計です。宝永地震が列島規模の災害だったことは確かですが、細かな数字には復元上の不確かさが残ります。
巨大地震の翌日には富士山南西麓でも強い地震があり、村山浅間神社周辺で大きな建物被害が出たとする記録があります。その後、山中や山麓の地震が増え、49日後に宝永噴火が始まりました。
地震による強い揺れや地殻の応力変化が、マグマや火山ガスの動きに影響した可能性はあります。炭酸飲料の容器を揺らすと内部の気泡が生じやすくなるように、圧力条件の変化がマグマの発泡を促すことも考えられます。
ただし、これは「巨大地震が発生すると49日後に富士山が噴火する」という法則ではありません。地震と火山の反応は、マグマの位置、量、圧力、通り道などに左右されるため、過去の日数を未来の予言へ置き換えることはできないのです。
白い灰から黒い灰へ変わった理由
宝永噴火の重要な特徴は、噴火の途中で噴出物の色と化学組成が変化したことです。
初期の白っぽい軽石は、二酸化ケイ素を約70%含むデイサイト質とされています。玄武岩質の噴出物が多い富士山としては、珍しい性質です。
その後に増えた黒いスコリアや火山灰は、二酸化ケイ素が約50%の玄武岩質でした。こちらは富士山を形づくってきたマグマに近い組成です。
有力な考え方の一つは、地下で性質の異なるマグマが層状に存在し、上部にあったデイサイト質マグマが先に出た後、下方から玄武岩質マグマが噴出したというものです。
江戸の人々が目撃した白灰から黒灰への変化は、単なる見た目の違いではありません。地上からは見えない地下のマグマ供給が、噴出物という形で表面化した記録なのです。
一方、マグマの上昇開始地点や脱ガスの程度を、約20キロメートルなど一つの深さで断定するのは慎重であるべきです。地下構造の推定は研究手法によって変わるため、「地下深部から上昇したマグマが急激に減圧し、爆発的噴火につながった」と捉えるのが妥当でしょう。
宝永噴火の被害は?江戸の降灰と長期化した復興
宝永噴火では、東麓の集落が大量の噴出物に埋まり、約100キロメートル離れた江戸にも火山灰が到達しました。
風は主に噴煙を東へ運びました。現在の御殿場市や小山町にあたる御厨地方では、軽石やスコリアが場所によって3メートル以上積もったとされます。
特に富士山東麓の須走村は大量の噴出物に覆われ、家屋、田畑、食料の蓄えが深刻な被害を受けました。住民は周辺へ避難し、噴火後には埋まった土地を掘り起こして集落と耕地を再建しなければなりませんでした。
確認できる史料上、噴石の直撃などによる「噴火そのものの直接死」は明確ではありません。しかし、これは人的被害がなかったという意味ではありません。
農地の荒廃による飢え、避難生活の疲弊、降灰による健康悪化、噴火後の土石流や洪水など、間接的な被害は長期に及びました。当時の記録だけから、これらによる死者を噴火災害として正確に数えることは困難です。
江戸では、昼間でも灯火が必要になるほど空が暗くなったと伝えられています。新井白石は『折たく柴の記』で、南西から黒い雲が広がり、白い灰が雪のように降った様子を書き残しました。
江戸の降灰量については、史料に2寸から4寸、現在の約5~10センチメートルに相当する記述があります。ただし、この数字を江戸全域の実測値として採用することはできません。
東京大学本郷キャンパスの発掘調査では、薄い白色の層の上に約2センチメートルの黒色火山灰層が確認されています。こちらは一地点の地層であり、江戸全体の平均値ではありません。
つまり、5~10センチメートルは当時の文書に残る記録、約2センチメートルは本郷の特定地点で確認された地層です。測定場所、風による再移動、雨による圧密、後世の土地改変が異なるため、両者は同じ条件の数字ではありません。
灰は噴火が終わっても風で舞い上がります。火山灰は木を燃やした灰とは異なり、細かな岩石や火山ガラスを含むため、目、鼻、喉へ刺激を与え、機械や水路にも入り込みます。
幕府はどのように被災地を救済したのか
東麓を治めていた小田原藩は食料供給などに取り組みましたが、広い農地が埋没した状況を藩だけで立て直すのは困難でした。
藩主の大久保忠増が幕府へ救済を求めた結果、被災地の一部は一時的に幕府直轄領となります。幕府は関東郡代の伊奈忠順を現地対策の責任者とし、救援米の支給、農地の砂除け、用水や河川の復旧などを進めました。
砂除けとは、田畑を覆った火山灰やスコリアを人力で取り除く作業です。現在のような重機がない時代に、厚い噴出物を掘り、運び、捨て場を確保する作業は、途方もない負担でした。
幕府は1708年2月28日、復興財源として「諸国高役金」を全国の大名領や幕府領などへ課しました。一般に石高100石につき金2両を基準とした、全国規模の臨時負担として知られています。
集めた金額と被災地へ支出した金額には複数の説があります。約40万両を集めて約16万両を救済へ充てたとする説明のほか、徴収額約48万8770両余、被災地への支出約6万2500両余とする史料整理もあります。
差が生じる理由として、賦課した額と実際に徴収できた額の違い、救済費に含める事業の範囲、集計期間、残存する勘定記録の欠落などが考えられます。
したがって、どちらか一つだけを確定値として示すより、史料ごとに集計対象が異なると理解する必要があります。それでも、全国から集めた資金のすべてが被災地へ直接届いたわけではないことは、復興行政の重要な論点です。
噴火後の洪水が被害を世代単位へ変えた
宝永噴火の被害を長期化させたのは、地表に残った大量の火山灰とスコリアでした。
農民が田畑から取り除いた噴出物は、砂捨て場などへ集められました。しかし雨が降ると、むき出しの灰や砂は斜面から流れ出し、河川へ入り込みます。
酒匂川では火山灰や土砂の流入によって川床が上昇し、水があふれやすくなりました。噴火翌年の1708年8月7日から8日にかけて豪雨が降ると、大口堤が決壊し、足柄平野が濁流に覆われます。
その後も流域では洪水や土砂氾濫が繰り返されました。1726年からは、徳川吉宗の命を受けた田中休愚が治水と復旧事業に携わっています。
農業生産が噴火前の水準へ戻るまで、地域によって数十年から約90年を要したとする研究があります。河川への影響まで含めれば、宝永噴火は約100年に及ぶ災害だったと捉えられます。

宝永噴火から現代は何を学ぶべきか
宝永噴火の最大の教訓は、噴煙が消えた日と災害が終わる日は同じではないということです。
私見では、富士山防災には二つの時間軸が必要です。一つは地震や地殻変動などの変化を捉え、噴火前後に命を守る短期対応。もう一つは、降灰処理、河川管理、農地再生、物流の回復を何年も続ける長期対応です。
現代に宝永噴火級の広域降灰が発生した場合、被害は灰の厚さだけでは決まりません。少量でも鉄道の信号設備、道路、航空機、変電設備、通信機器、浄水場などへ灰が入り込めば、複数の都市機能が連鎖的に低下する可能性があります。
とくに降灰後の雨には注意が必要です。乾いた灰は風で舞い、ぬれた灰は重くなります。排水設備へ流れ込めば詰まりを起こし、斜面や河川では泥流や土石流の材料になります。
宝永噴火を現代へ置き換えるなら、火口からの距離だけで安全を判断するべきではありません。風下に位置する都市と、降雨後に土砂が集まる流域の両方を見る必要があります。
富士山は2026年現在、噴火が迫っているのか
長期的には将来噴火する可能性がありますが、2026年8月10日公表の気象庁資料には、噴火が差し迫っていることを示す観測変化は記載されていません。
気象庁の「富士山の火山活動解説資料(令和8年7月)」によると、富士山の噴火警戒レベルはレベル1「活火山であることに留意」です。
同資料では、2026年7月の状況について、山頂部で噴気は認められず、火山性地震は少ない状態で経過し、火山性微動と浅部の低周波地震は観測されていません。GNSSなどの地殻変動観測にも、火山活動によると考えられる特段の変化はないとされています。
これは「富士山が永久に安全」という意味ではありません。長期的な噴火可能性と、短期的に噴火が切迫しているかどうかは別の問いだからです。
富士山では約5600年前以降に約180回の噴火があったと説明されています。単純に割れば約30年に1回ですが、実際の噴火は特定の時代に集中し、数百年の空白もあるため、30年周期で噴火するわけではありません。
短期評価では、火山性地震の回数や震源、低周波地震、火山性微動、山体膨張、噴気、火山ガス、地表温度などを組み合わせて判断します。
一つの変化だけで噴火を断定できない点も重要です。1987年8月には富士山で火山性地震が一時的に増え、山頂で有感地震が4回観測されましたが、噴火には至りませんでした。
2000年から2001年にかけて深部低周波地震が多発した際も、噴火は起きていません。観測情報は恐怖をあおる材料ではなく、複数の変化を科学的に見極めるための材料です。
僕は宝永火口を前にすると、静かな山にも履歴があることを思い知らされます。けれど、火口の大きさを見て「もうすぐ噴火する」と語ることも、静かな風景を見て「噴火しない」と決めることもできません。
霧に隠れる富士は、人の心の迷いに似ています。だからこそ僕たちは、暦や噂ではなく、気象庁の噴火警報、観測資料、自治体の避難情報という確かな輪郭を見る必要があるのです。
まとめ|宝永噴火は灰と水が被害を長引かせた災害
富士山宝永噴火は、1707年12月16日に南東斜面で始まり、1708年1月1日未明まで約16日間続いた爆発的噴火です。
大量の軽石、スコリア、火山灰が東側へ降り、須走村などの山麓集落や農地を埋めました。約100キロメートル離れた江戸にも灰が届き、本郷の発掘地点では約2センチメートルの黒色火山灰層が確認されています。
確認できる史料上、噴火そのものによる直接死は明確ではありません。しかし、飢え、生活基盤の喪失、降灰後の洪水などを含む間接的被害は深刻で、復興は数十年から約100年に及びました。
宝永地震が噴火へ影響した可能性はありますが、49日という間隔が繰り返される法則ではありません。現在の危険度も前回噴火からの経過年数ではなく、地震、微動、地殻変動、噴気などの観測結果から判断する必要があります。
宝永噴火が伝える本質は、火山災害が噴火の瞬間だけでは終わらないことです。灰が雨で動き、川を変え、農地と暮らしを世代単位で傷つけるところまで見通してこそ、歴史は現代の備えになります。
主な参照資料と情報の基準日
- 気象庁「富士山の火山活動解説資料(令和8年7月)」2026年8月10日公表
- 気象庁「富士山の噴火警戒レベル」
- 富士市公開資料「富士山の噴火史」
- 富士山火山防災対策協議会「富士山ハザードマップ」
- 内閣府「大規模噴火時の広域降灰対策検討ワーキンググループ」関連資料
- 山梨県富士山科学研究所の富士山噴火史・降灰影響に関する解説
- 神奈川県立歴史博物館の宝永噴火関係史料・展示解説
- 東京大学本郷キャンパスで確認された宝永火山灰層に関する発掘調査資料
歴史上の地震規模、死者数、降灰量、復興費用には、史料の残存状況や集計方法による幅があります。本記事では2026年8月13日を情報基準日とし、推定値と確認された地層、長期評価と現在の観測状況を区別して記載しました。
よくある質問
1707年の富士山宝永噴火で死者は出ましたか?
確認できる史料上、噴石などによる直接死は明確ではありません。ただし、農地の荒廃、飢え、健康への影響、噴火後の洪水などによる間接的な人的被害は、史料だけでは正確に把握できません。
宝永噴火では江戸に何センチの灰が積もりましたか?
当時の文書には約5~10センチメートルに相当する記述がありますが、江戸全域の実測値ではありません。東京大学本郷キャンパスの一地点では、薄い白色層の上に約2センチメートルの黒色火山灰層が確認されています。
2026年現在、富士山噴火は迫っていますか?
気象庁が2026年8月10日に公表した資料では噴火警戒レベル1で、7月の観測に噴火の切迫を示す特段の変化は記載されていません。ただし富士山は活火山であるため、将来の噴火可能性とは分けて考え、最新の噴火警報や解説資料を確認することが大切です。
神楽 岳志(登山エッセイスト|富士山研究家|自然体験ストーリーテラー)


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